職員会議の冒頭、会議室のホワイトボードの前で、学園の一切を取り仕切る美女が声高に宣言した。 「今年の夏休みのテーマは――――エコ夏よ!」 「……なんなんだよ、そのどこかの電機メーカーの煽り文句みたいなテーマはよ」 胸中で呟いたつもりが、既に口に出ていた。黒鋼は、ポーズを決めた壱原侑子理事長に学園内で最も忌憚なく(というより、ずけずけと)ものを言う人間として同僚たちから認識されている。 「学園内の設備をエコ家電に買い替え、ってことかなー」 黒鋼の隣に座っているファイは、相変わらず脱力系の微笑を浮かべながら黒鋼に応じている。 「そういうことなら話は早いんだけどね」侑子はビッと一枚のプリントを黒鋼とファイの前に突きつける。「配布したプリントを見てちょうだい」 黒鋼とファイが見たところ、そこには「消費電力削減についてのお知らせ」との題があり、右肩には経済産業省の某と書いてあるのを見て二人は眉をひそめる。 「震災の影響により電力供給が困難になると予想されるため……消費電力を堀鐔学園全体で15パーセント削減することを求めます」 それらの文言をゆっくりと声に出したユゥイは、読み上げた内容を反芻するようにして呟いた。「つまり、国から通達された義務、ということなんですね」 「ユゥイ先生は物分かりがよくて助かるわ。特に堀鐔学園は大学病院も擁しているから、病院を除く他の施設で使用電力を削減する必要があるの。そういうわけで、先生方や生徒のみんなにはご迷惑をおかけすることになるけれど、クーラーの使用を多少控えてもらうことになるわ」 侑子は夏の暑さを感じさせない艶やかな笑みを閃かせて言う。しかし―――― 「異議を」顔面を蒼白にして立ち上がった人間が、黒鋼の隣にいた。「異議を……申し立てますっ」 ――――以上、職員会議の内容を思い返しながら、黒鋼はファイと向き合っていた。職員宿舎の自室、ダイニングテーブルでの出来事である。 冷えた麦茶に氷が浮いており、コップの表面に水滴を無数に浮かび上がらせている。その水滴の一つ一つにしおれた木々のような様子のファイが映り込み、再び黒鋼はため息をつく。 「無理だよー……夏は冷房なきゃ生きていけないもん……」 職員会議の場で、並々ならぬ決意の色を表情に浮かべて侑子の通達に異議を申し立てのは、ファイだった。そもそも理事長の思いつきというよりは国からの通達であるし、時期が時期で内容に緊急性を含んでいるゆえ異議など申し立てようもなかったのだが、ファイに言わせると「オレはオレの生存環境を整える権利を主張したいの!」ということらしい。 今も室内に風を送る冷房は28度。ファイの額、金髪の生え際と顰められた眉間にじわりと汗がにじんだ光を放っているのを見ると、黒鋼は自分が夏休みの生活をどうこうするよりも、この化学教師がどうにかすべきではないかと思い始めていた。 湿気と高温でむさ苦しい夏場の体育館の環境を耐え抜いてきた黒鋼としては、冷房の設定温度を多少上げられたところで生存環境を狭められたと文句を口にする気は起きない。 「ちょうどいいんじゃねえの。てめえ毎年冷房で体冷やしすぎて寝込むだろ」 黒鋼が心底面倒くさそうに口に出すと、ファイが涙目で睨みあげた。 「熱中症になったことがない人に無理にわかってもらおうだなんて思わないよ」 「言っておくがな、てめえが自分の部屋じゃなく俺んとこに入り浸ってるせいで、去年も一昨年も7月から9月の冷房代がかさみまくってたんだよ」 それを言うと、ファイはぐっと押し黙ってしまう。そういえば去年も一昨年も冷房のリモコンスイッチを手に取る度に黒鋼の眉間の皺が一本増えていたような気がする、と今更思い出した。 「改善策なら俺も考えてやるから、とりあえず今年はなんとかしのげ」 「うー……冷凍庫の中アイスでいっぱいにしても怒らない?」 「……怒んねえよ」 「毎日アイス食べても怒らない?」 「怒らねえけどどんだけアイス好きなんだよお前」 「お風呂はぬるいのにしていい?」 「そんなに言うならずっと湯船に水張っといたらどうだ」 それらを聞いたファイは、そろりそろりと顔を上げた。ばつが悪そうに曲げられた眉の形は愁眉と呼ぶにはやや媚びを含んだ形で、だがその媚びに浸りきることを覚えてしまった黒鋼は視線をファイから離し難くなる。 「ありがとう黒様愛してる」 ファイからかけられた言葉に顔を背け、ふん、と鼻を鳴らして応じた。 それから黒鋼とファイは、いくつかの改善策を講じた。 日中は窓を開け放ち、部屋に風を通す。または、扇風機を用いる。 気温が高い時間帯はなるべく動かず、体力の消耗を避ける。 プールに行ったり水に体を浸すなどして体温を下げる。 図書館やショッピングモール等、冷房が効いた公共施設を利用する。 暑くなったら水分や冷たいものを摂取する。 涼感グッズを購入し、持ち歩く。云々。 そしてもう一つ、ファイが特に黒鋼に願い出たことがあった。 「ユゥイもこっちに泊まってもらっちゃだめかな?」 その提案には、一理あった。 今でこそ黒鋼の部屋にファイが転がりこんで半同棲状態が続いているものの、ユゥイの赴任が判明してからファイは自室に弟のユゥイを受け入れている。黒鋼の部屋に招いて夕食を一緒に摂ったり三人で酒を飲んだりすることも多いが、ユゥイは基本的にファイの部屋で寝泊りしている。 しかし節電を強いられる今夏、単身で暮らす世帯があるとエネルギー効率がよろしくない。であればユゥイも黒鋼の部屋に呼んで共同生活を営むべきではないか、と。ファイはそのように説明した。 「ユゥイはオレ以上にこっちの暑さに慣れてないと思うから」 実に殊勝な兄らしい言葉に、ふぅん、と黒鋼は三秒ほど考え込んだ。 抵抗感がないわけではなかった。 既に自分にとって特別な存在となっているファイとは似て非なる……というより遺伝子的にはファイのそれを複写されたも同然の双子の片割れ。もちろん違うとはわかっていても、時折ユゥイのしぐさの中にファイを見たり、その逆もあったり、という事象に日常で遭遇することがある黒鋼の胸中には、ユゥイに対する苦手意識が潜む。ファイにそっくりな澄んだ青い瞳で、ファイとはまったく別種の感情を含んで見つめられると、どうも弱い。 黒鋼・ファイ・ユゥイの三人が共にいるとき、ファイはどちらかというとユゥイと距離を縮めることが多い。もちろん双子だからと言ってしまえばそれまでだが、有体に言ってしまえばカップルとその兄弟、という図式を避けてユゥイに気を遣ってのことだろうと黒鋼は推測している。そのバランスが自室の中でも繰り広げられることになる。 とはいえ、せっかくファイが前向きに夏の酷暑と向き合おうとしているところなのだ。それは大いに歓迎すべきことであるし、そのためならできる限りの協力を惜しむまいと決めたばかりだった。ファイ以上に料理がうまく配慮の行き届く性格のユゥイが一時的にこちらに住まうことは、黒鋼にとって必ずしもマイナスにならない。 「まあ、夏休みの間ならいいんじゃねえか」 黒鋼が同意すると、ファイは素直に喜んだ。 ファイがユゥイに事の次第を告げようと連絡を入れると、むしろユゥイの方が驚いて恐縮した。しかし彼が応諾するのにそれほど時間を要しなかったのは、ちょうど熱中症で子供が倒れたという報道と、今年の夏は例年以上に暑さが厳しいのでご注意くださいという気象予報士のコメントが、ユゥイが視聴していたニュース番組で続けて流れたからかもしれない。 ともあれ、一日の期間を置いてユゥイは黒鋼の部屋にやってきた。黒鋼とファイは、二人で過ごす最後の日、涼感シーツと布団を購入した。 ダイニングテーブルの上に置いた携帯電話から着信メロディが流れだしたとき、玄関から「やっと着いたーただいまー」と間延びした方の声が飛んできた。火を使っているためどちらにもすぐには対応できなかったユゥイだが、ファイの方はすぐにダイニングに顔を出した。 「ただいま、ユゥイ。いい匂いがするねえ」 「お帰り、ファイ。今日は冷製パスタにしたよ」 「楽しみだなあ。ビールも買ってきたから、おつまみはオレが用意するね」 ファイは、3人分のパスタの束がとぐろを巻く鍋の中を覗き込み頬笑みながら言った。一方、彼は鞄の中に入れておいた自分の携帯電話のランプが光っているのに気付いて取り出す。 「黒たんもシャワー浴びたらすぐに帰ってくるって」 ユゥイの携帯に入っていたメールも、黒鋼からの同じ内容のものだった。 ファイは遅れて出勤し、大学受験生向けの特別講習を1日1コマか2コマ程度担当するというライフスタイルだが、黒鋼はファイ・ユゥイと違い、夏休み期間中も剣道部の指導で忙しく、朝から出勤することも少なくない。 堀鐔学園にそれほど拘束されないユゥイは、外部の調理専門学校から声がかかって出向することもあるが、それでも自由な時間が圧倒的に多いのは事実だ。黒鋼の部屋に居候しているという遠慮も働いてか、自然、家事をこなす時間が多くなる。 「明日は土曜でオレも休みだから、掃除機をかけようかと思うんだ」 鞄を置いたファイは軽やかな所作で食器棚の扉を開き、食卓の準備を始めた。 「今日も気温が高くまで上がってたけど、ユゥイは具合悪くならなかった?」 「大丈夫だよ。……言われた通り、風が通るように窓を開けてるし、水分はきちんと取ってるし。風鈴の音も気持ちいいよね」 「そうそう、風鈴がいいって言ってた意味、わかったでしょ。でもキッチンで火を使ってると暑くなるから、気をつけてね」 言いながら、ファイはダイニング側のカーテンを閉める。6時を過ぎているが、まだ太陽の直射日光が西から強く差し込んでくる時間帯で、夕暮れの赤い色が空に現れる気配も見えない。 パスタが茹で上がったことを知らせるタイマーの音がけたたましく響いたが、ユゥイがすぐにタイマーを切り、手早く鍋を持ち上げてシンクに用意していた大きなザルに流し込んだ。立ち上る湯気にユゥイの額からじんわりと汗が流れ出るものの、鍋を置くとすぐに冷たい水を流し出したので、滴り落ちるほどの量ではなかった。 具材は何、というファイの問に、ユゥイは「豚肉と水菜だよ」と答えた。なるほど、ファイが冷蔵庫の扉を開いて覗くと、既にぎゅうぎゅうに物が詰めてある中にしゃぶしゃぶ用豚肉をゆがいたものと洗った水菜が一番手前に姿を見せている。 ファイがそれらを取り出してユゥイに渡すと、玄関のドアが再び音を立てているのを彼は聞いた。 「あっ、帰ってきた」 ファイの笑顔が一層明るくなるのを見ると、ユゥイは苦笑する。行っておいでよ、と視線で語ったのを察知したファイは駆け足で廊下へ飛び出して行った。「お帰りなさい黒様」「おう」の応答を数メートルの距離を置いて聞きながら、ユゥイは扇風機のスイッチを入れた。 しゃぶしゃぶ豚肉と水菜の冷製パスタが食卓に乗り、それに野菜の煮物と味噌汁を加え、缶ビールのプルタブを開くと、3人のささやかな夕食が始まった。 「お前らは二人とも無事に過ごせたのか」 先ほどのファイの問と同じだったが、帰宅すると黒鋼は毎日そのように言う。無事に、というのはこの場合、熱中症やその類の症状を出さずに、という意味であるが、ファイとユゥイは揃って頷くのが常となっている。 「職員室でパソコン作業してるとやっぱり暑いけどねー、タオルを濡らして首に巻くと結構楽なんだよね」 「ボクも、外出するときはできるだけ冷房の利いた建物の中を通るようにしているし、問題ないよね」 「ねっ」 双子が相槌を打ってにっこり笑い合うと、黒鋼は筋肉疲労のためではない疲れを感じたような顔を見せて、「そうかよ」と言った。 “対策”は、黒鋼の想像以上に功を奏している。ファイは冷房に頼ることはできなくとも例年よりも元気に生活を送っているし、ユゥイも同様だ。冷蔵庫と冷凍庫の中身が窮屈になっている(食材より、生菓子やラクトアイスの類の割合が多い)ことを除けば、冷房代も十分節約できており、黒鋼としては夏の懸念が一つ消滅したと考えてもよい。 しかし新たな悩みもまた、生まれ落ちた。 黒鋼は悶々とした表情で缶ビールを喉に流し込む。暑い中で運動して疲労した肉体に冷えたビールの喉越しは心地よいが、心の中に捉えどころなく出現した靄は晴れなかった。 目の前で、双子は子供のように無邪気に会話している。 「明日お休みならデウカリオンに行かない? ジェラートのサービス、まだ一回も行ってないでしょ」 「行く行く! サクラちゃんやひまわりちゃんがそのジェラートのこと話してて、いいなあって思ってたんだよねー。せっかくの夏限定だし」 イタリアンジェラート、と聞いて黒鋼は心がやや重くなったのを感じた。甘いものが嫌いな黒鋼としては積極的に食べに行きたいものではない。もちろんファイもユゥイもそれを知っているだろうが、特に悪意はないのだろう。更に言えば、ファイは期間限定というアオリがつく商品に弱かった。 ユゥイが、ちら、と黒鋼に視線を寄越した。黒鋼は顔を上げたが、既にユゥイの視線はファイに向けられていた。 「あの子たち、今日も学校に来てたんだ?」 「ううん、今日じゃないんだ。確か一昨日サッカー部の活動があったとき」 「あはは、小狼くんと待ち伏せするんだ」 「あっ、違うよユゥイ。待ち伏せじゃなくて、待ち合わせ」 そうして、同じ顔をした二人はけたたましいと感じられるほど明るく笑い合う。彼らは純粋に、お互いが久方ぶりに寝食を共にするという非日常が日常になりつつあるのを、楽しんでいた。 再び視線を感じて黒鋼が顔を上げると、今度はファイが黒鋼から眼をそらすようにしてユゥイに向き直っている。 (なんなんだろうな、これは) 黒鋼はやけになって手の中にあるビール缶をぐいっと呷った。 先ほどユゥイが褒めた、窓辺に吊るされている風鈴が、チリン、と食卓に涼やかな音を響かせて、双子はまたさざめき笑った。 ユゥイが自室に転がり込んで(というか一応正式に招いて)から既に十日ほど経っているが、初め、寝所をどうするかで多少もめた。 ごくたまに黒鋼の部屋で3人が酒を飲んだ後にユゥイが潰れて泊まることがあったが、今回は中長期にわたって宿泊するとのことで、初めユゥイはベッドを使うことを遠慮した。気兼ねする必要がないとファイが説得し、結局交代でベッドとリビングのソファ、あるいは新調した敷布団を使うということになりはしたが、ユゥイがベッドを使う夜はファイもそちらに潜り込むことが多く、その逆もまた少なくなかった。 今夜もその例に漏れないらしく、ファイとユゥイは共にシャワーを浴びた後、涼しげなTシャツとジャージの姿で二人して、いつも黒鋼とファイが使っている寝室に入り込むと、 「黒たん、お休みー」 「お休みなさい、黒鋼先生」 二人がそっくりな笑顔をリビングの黒鋼に向けてあいさつした後、寝室のドアを開け放ったまま電気を消す。 黒鋼も「おう」と適当に返事をしてソファに横たわったが、眠ることをせずにベッドの上の双子は修学旅行に来た子供のように小声でさざめき合っているのを聴覚が捉える。 「ファイの肌はすべすべで気持ちいいね」 「ユゥイだって、ひんやり肌で気持ちいいよ」 もともと男性ホルモンの分泌が少なそうなフローライト兄弟であるが、どうも二人揃うと成人した男きょうだいというよりも、女子高生の友達同士を連想させる。いずれにせよ、黒鋼にはたまらない思いを湧きあがらせた。 ファイの体に久しく触れていない。 滑らかな肌の感触を夢の中で思い出せないかと、黒鋼は狭いソファの上で寝返りを打った。窓から吹き込む夜風が前髪をくすぐり、眠りの到来を許さなかった。 寝起きのシャワーを浴びたばかりのユゥイが、リビングでノートパソコンを開いて難しい顔をしているのに出くわした黒鋼は、「どうした」とだけ短く声をかけてソファに座って朝刊を広げたが、ユゥイのその表情が少し珍しいものだったので、興味がわいた。朝の光が眩しい時間帯で、ユゥイはまだバスタオルを首にかけたままの状態だ。美しいプラチナブロンドも十分に乾いていないが、ブロンドからはファイと同じシャンプーの匂いが漂っている。 「んー……店のことでちょっと」 ユゥイが、店、というと、堀鐔学園に赴任する前に調理師として働いていた店のことだ。黒鋼が遠目にノートパソコンの画面を覗き見すると、何やら外国語(無論、推測するにイタリア語であろうが、黒鋼はさっぱり理解ができないので、あくまでも推測に過ぎない)で綴られたメールのウィンドウが開かれている。そのまま無言でインターネットブラウザを開き、何やら航空会社のウェブサイトを閲覧し始めたかと思うと、携帯電話の画面を確認したりと忙しい。 「ユゥイ、どうしたの」 アイスコーヒーを注いだファイが、黒鋼とユゥイの二人分のグラスをテーブルの上に置きながら尋ねた。 「向こうに戻らないといけないかも」 「えっ、ずいぶん突然だね」 「これくらいは向こうだと日常茶飯事だよ」 「いつ行く? 何日間くらい?」 「メールには書いてないけど、三日間くらいかな。移動で前後一日使っちゃうけど……今の時間から準備すれば今日中に飛行機に乗れるかな」 新聞を広げて気象情報を確認しようとした黒鋼は、双子の会話を靄の中で交わされるさざめきごとのように聞いていた。今夜は夕方から雨になると、そのように表示される青色の傘マークすらよく頭に入らない。 「ユゥイ、まずは髪の毛を拭いて朝ごはんにしようよ。――黒様、コーヒー飲まないの?」 「ん?……いや、飲む」 「あっ、二人とも先に食べてて。ボクは飛行機の予約だけ入れておくよ」 言いながら、ユゥイは肩にかけていたバスタオルを左手で握って金髪を拭い、右手ではキーボードを叩き始める。了承したファイと黒鋼は連れだってダイニングへ行き、朝食の準備を始めた。 講師としての授業がある学業期間中は別として、長期期間中は、ユゥイが以前勤めていた店から依頼されてイタリアへ戻ることがままある。今回もそういった仕事の一で、慣れているユゥイは外見から想像される以上にフットワークが軽い。 ユゥイはハムと野菜のサンドに目玉焼きというメニューが並んだ朝食を食し終え、ファイと共同で食器を片づけた後、先ほどのイタリア語のメールにすぐに返信し、理事長の壱原侑子にも電話で連絡を入れた。そして黒鋼が部活指導のために出勤するのと同時刻、荷物をまとめると言って黒鋼の住まいを一旦辞した。 「夕方までにはもう出発してますから、ここでお別れでしょうね」 「そうか」 扉を出たところで、ユゥイは黒鋼に頭を下げた。 「黒鋼先生、ずいぶん長い間お世話になりました。とても楽しかったです」 「そりゃよかったな」 「またファイと仲良くしてください」 「…………」黒鋼は喉に食べ物が引っかかったような顔をした。「……戻ってきたら、またうちに来るか」 ユゥイは肩をすくめ、どこか遠い空を見上げるような目になる。 「三日間とは言いましたけど、必ずしも三日で日本に戻らなくちゃいけない理由はないんですよ、今のところはね」 バカンスか、と黒鋼の口から似つかわしくない言葉が漏れた。黒鋼はイタリアに行ったことはなかったが、地中海性気候に育まれたイタリアが現在バカンスシーズンであることくらいは一般常識として知っていたし、ファイからイタリアのリゾート地の写真を見せられたことがあったのを覚えていた。蒸し暑い日本と比べればさぞ心地よい場所であろう。 「あちらも久しぶりですから、人と会ったりして少しゆっくりしてきます。……ファイもあなたのことが気になって仕方なかったみたいだから」 「も、ってどういう意味だ」黒鋼のツッコミには既にスピードと力がない。 「お礼とお詫びに、美味しいワインを買ってきます」 「お詫び?」 「しばらくファイを一人占めしちゃってすみませんでした」 それじゃ、とユゥイは軽やかに身を翻して、すぐ隣の自室の扉の奥へと消えてしまった。黒鋼は、どうもユゥイの口にしたお詫びという単語にとげが含まれているのをそれとなく察し、階段を下るために足を踏み出すのにまた十秒ほどの時間を要した。 天気予報は的中し、夕方から雨が降り出した。 最近増えているゲリラ豪雨だった。土曜日だったので部活指導が平日よりも早く終わったにもかかわらず、黒鋼は部員たちが下校するのを見届けてから帰らなければならなかった。ちょうど雨が止んだ短い時間に全速力で職員宿舎までの道のりを駆けたが、それでも、最後の約30メートルでやや大粒の雨に全身を打たれた。 なんとか宿舎の建物の中に入ると、黒鋼はようやく一息ついた。部活が終わった後にシャワーを浴びたばかりなので、もう一度シャワーを浴びるのが億劫だ。手持ちの大きなタオルで乱雑に頭や手足を拭った。階段を上がって部屋までたどり着いたときには、雷も鳴り始めていた。 黒鋼が扉を開くと、ダイニングの方から廊下を伝って、炒め物をしているのだろうか、何やらジュワジュワと激しい音が聴こえてきた。ファイの「お帰りなさーい」の声は、その中に混じって届いた。 それでも黒鋼は、ずいぶん静かだな、と心の中で思う。 部活指導が終わって宿舎に戻ると、先にファイが帰っていて、二人分の夕食を作っている。夏休み前と変わらないそれこそが黒鋼にとっての日常だったはずなのだ。 廊下を歩くと、焼けたシイタケの芳醇な香りが鼻孔をくすぐった。網戸を閉めて窓を開放しているのだろうか、湿気を含んだひんやりとした風が部屋中に流れ込んでいる。 キッチンを覗くと、いつものパステルブルーのエプロンを身に付けたファイが菜箸で何やらフライパンの中をつついている姿があった。シイタケとチーズのホイル焼きは、和風好みの黒鋼が好んで食べる料理の一だった。 「……美味そうだな」 「でしょ? これができたら食べ始めよう。あ、朝のうちにお掃除しておいたからね」 「助かる」 「今日はね、お昼ごろにユゥイが出発したんだけどね。一緒に出て、バスを待ってる間、昨日言ってたジェラートを二人で食べに行ったんだよ」 「ふーん。どうだった」 「濃厚で美味しかったよ。割引券ももらっちゃった」 そこ、とファイは菜箸を持たない左手でテーブルの上を指差した。確かにファイの言う通り、何やら可愛らしくデコレーションされたクーポン券がテレビのリモコンを重石替わりに置かれている。店主だか店員だかは知らないが、どうやらこのクーポンを作った人間は凝り性らしい。 「いろんな種類の味があってね。オレはチョコレートでユゥイはストロベリーにしたんだけど、抹茶とか黒ごまとかなら君も食べられそうかなって思って」 「ふーん。そりゃよさそうだな」 黒鋼はごく自然にそう言うと、ファイは少し目を大きく見開いて黒鋼の顔を見上げた。 「一緒に行ってくれるの?」 「何だよ、誘ったんじゃなかったのか」 「あ、うん、その、誘うつもりだったんだけど」ファイが目を泳がせて言葉をしどろもどろさせる。「一緒に行こうよってオレが言う前に、黒りんからジェラート食べに行きたそうな台詞が出るなんて思わなかったから」 それはまあ、甘いものは好かないが、と黒鋼は言いかけて黙った。彼はむしろ、ファイがイタリアンジェラートなる甘味を勧めようとしていることを忘れていた。ただファイが、一緒に出かけようという誘いの言葉を他でもない自分にかけてくれるなら、何を食べに行こうと構わなかったのだ。 「なら、黒たんが空いてるときに行きたい」 ファイの瞳がひたむきな色を帯びると、黒鋼は目をそらすことを忘れて息を呑んだ。そして、必死に頭の中のカレンダーを繰った。 「明日、日曜日だっけな」 「そっか。平日は部活があるもんね」 「二日連続で同じ店に行くのも嫌だろ」 「ううん、オレは気にしないから」 だから明日行こうよ、と必死さを滲ませて言いながら、ファイはフライパンにかけていた火を止めて、黒鋼に向き直る。そのとき黒鋼は特に何も考えず、ぐっと、ファイを抱き寄せた。 抱き寄せる力が常より強かったので、ファイは一瞬慌てて「わ」と小さな声を上げた。後で考えると、黒鋼の体からまだ雨の滴を拭きとりきっていないことに文句の一つでも言いたかっただろうが、彼は抱擁を無言で受け入れて顔を上げた。そしてこれもまた、黒鋼の理性を通り越した場所に住まう本能に訴えかける陶然とした表情で、黒鋼はファイの薄い唇を貪るようにして吸った。ファイも応じて黒鋼の口内に舌を差し入れ、掻き回した。心臓が脳にあるのかと思うほど、鼓動が激しく脈打ってうるさかった。 ようやく唇を離したとき、黒鋼はファイの青い瞳が潤いを湛えているのに見とれた。そして、キッチンでの調理がほとんど終わった状態なのをちらりと横目で確認して、ファイのすらっとした肢体を抱きかかえる。ファイは潤んだ目のまま何も言わず、黒鋼のなすがままにさせていた。 他の部屋は電灯を消し、ファイを放り込んだ寝室、ベッドサイドの蛍光灯だけつけた。他の部屋に設置されている白熱灯の温かな色合いと違って、白い輝きを放つそれはあまり情事の雰囲気に似つかわしくなかったのだが、二人にとっては最早埒外の出来事だった。 お互いに濡れたジャージとエプロンを放り出すように脱いで、その下の着衣も、次々と黒鋼が剥いだ。「んん」とファイの喉から漏れ出す掠れ声に、黒鋼はたまらなく欲情した。 「黒様」 ファイの声からも、いつもの黒鋼をからかうようなあしらうような声色は消え失せている。 ユニセックスの白いカットソーを脱がせると、ファイの肌が蛍光灯の光の中で別の白さを放っていた。日に晒されることのない二の腕に触れると、毛穴が少なく滑らかな感触を楽しむことができる。しかし同時に、昨晩の就寝直前のやりとりを思い出し、連鎖反応的にユゥイの顔を脳裏に浮かべてしまった黒鋼は動きを止めた。 (このベッドで)こいつとあいつは並んで寝ていたんだよな、という事実を嫌なタイミングで想起して渋い顔をした。そして一瞬、今目の前であられもない恰好をしているファイが実はまったく同じ顔をした片割れの方なのではないかという気も幾分か、それこそ夏の空に現れる雨雲のように突如として湧き起こった。 しかし侵攻速度が落ちた黒鋼をいぶかしんでか、彼の顔にファイの指が伸ばされる。 「気持ちよく、してあげる」 色めいた声を発したファイの白い頬が、常になく興奮して赤く染まっているのを見ると、黒鋼の脳裏に宿った双子の弟の姿は霧消した。 がっつくようにファイの首筋に噛みつき、胸板の性感帯に性急に指を這わせ、ファイが荒い息の合間にわななき声を混じらせる。形のよいへその周辺を舌で触れてやると、彼は涙を流して頭を左右に振った。 「もう……早く……」 抑えきれないほどの下半身の熱を訴える。見れば、すっかり持ち上がっているそれは、鈴口から透明な液体が滲み出ている。黒鋼は誘われるままにその硬いものを握り、親指で丁寧に鈴口を捏ね回した。 「あ、あ、」 ファイが今にも死にそうな声を上げて達すると、その白い肢体はぐったりと弛緩した。 脱力した足を、黒鋼が自分の厚い肩に担ぎあげた。太股が腹につくほどに折り曲げてやると、ファイが喘ぎ声を上げて応じた。いとしい体の中へ侵入するための場所を陰で探り当てると、黒鋼はその周縁を液体にまみれた人差し指で性急に、だが優しく触れる。 「もういいから」 ファイが促すと、黒鋼は更にファイの体に覆いかぶさるように乗り上げた。同時に、先ほどまで人差し指で翻弄していた部分に、挿入されるものがぴたりと触れ合った。二人の聴覚は互いの息遣いと鼓動でいっぱいで、その他のものは何も捉えなかった。 「……は」 「は、……ん……っ」 黒鋼が腰を進め始めると、ファイはその流れを察して深呼吸を始める。括約筋の収縮が穏やかになった隙をついて、黒鋼の体はゆっくりとファイに受け入れられた。 「ん……くろさま……あつ、あつい」 黒鋼が蛍光灯の光の下でファイの姿を改めて眺め回すと、彼は汗だくになってベッドに縫い付けられていた。それでも、黒鋼の体の一部を包む部分は貪欲に収縮を繰り返して快楽をもたらし、黒鋼のなけなしの理性を根こそぎ奪い取ろうとする。 動くぞ、と黒鋼も整わない息を整えようと努めながら言った。 「いいから早く、来て。……あ。あ、あっ」 後は悲鳴に呑み込まれた。黒鋼の躍動を受け止めるのに必死で、ファイは息をつくこともできなかった。黒鋼の方も、ファイの体が黒鋼の熱を奥へ奥へと引きずり込むかのごとくうごめくのに酔わされ、強くファイを穿った。その度にファイは、意識していないはずなのに甘やかな悲鳴をあげ、やはり黒鋼を煽ってやまなかった。 荒れ狂う夏の嵐のように二人はお互いの心と体を貪った。どうしても溶け合うことのできない二つの心と体を限界まで擦れ合わせてお互いのかたちを確かめるというその行為は、長く離れていたわけではないのに、お互いに不幸せだったわけではないのにいつの間にか生まれていた欠落感を存分に満たした。 雨は止む気配を見せなかった。心地よい疲労感のままにうたたねをしていた黒鋼は、雨がベランダの地面を叩きつける音でふと目を覚ました。 目の前に何やらきらきらしたものがある、と気付いてみると、左の腕にファイの頭を抱えていた。枕にしている腕の筋肉が多少なりとも活動し始めたのに感づいたのか、ファイも「んっ」と声をあげて覚醒する。 「起きたか」 「ん……でも暑くて疲れた……あちこち痛い」 そうだろうな、と黒鋼は先刻までのことを思い出して視線をそらした。甲斐甲斐しく夕食の準備をして自分の帰りを待っていた相手を欲望のままにめちゃめちゃに犯して困憊させた挙句、自分の方はすっかり欲求不満を解消できてすっきりしているという事実に、若干の後ろめたさを覚えざるを得ない。 だが黒鋼の思惑とは別に、ファイが掠れた声で話し出した。 「ずーっと、黒りーの機嫌が悪かったから気になってた」 「あ?」 「ユゥイのこと、ごめんね。ちょっと黒たんに甘えすぎちゃったなって」 黒鋼はファイの言葉の意味をいまいち察することができなかった。 「んーとね、ユゥイが来てから黒ぽんがしたがってるのはわかってたし、オレだってそうだったけど。もやもやしてる間、オレはユゥイとくっついて気をまぎらわせることもできたのに、黒たんはそうはいかなかったから」 「…………」 「あっ、もちろんユゥイとそういうことしてたわけじゃないよ」 ファイがいつもの脱力したような微笑みを浮かべて黒鋼の鎖骨の辺りまですり寄った。猫のような愛らしい仕草に、黒鋼もついついブロンドを撫ぜて甘やかしてしまう。 「夕食、温めるか?」 「ん、もうちょっとごろごろしていようよ」 黒鋼でさえ熱がまとわりつくように感じる室内の気温を気にすることもなく、ファイはシーツの中に体を沈める。暑くねえかと声をかけようとしたそのとき、りいん、とリビングの窓際に飾られた小さな風鈴が、風を受けてその体を震わせたのを黒鋼は聴いた。 2011.08.15. SUI wrote. * 「節電の夏、きみと二人きり。」 節電関係ねえじゃん……というツッコミは甘んじて受け入れます。 時事ネタを絡めて書いたつもりですが、大変楽しかったです。 *お題:節電の夏、きみと二人きり。 Thank you for 【ルルド】桐原スイ様 |