「うみ!?」
「おぅ」
「くろたん、うみ!!あれ、うみ!?」

子供のように蒼い瞳をまん丸に見開いて、眼前に広がる海を指差したファイは確認するように幾度も黒鋼を振り返る。
けれどその瞳は喜びに驚いている物ではなく、この海が純粋に不思議で本物なのかと疑っているような、そんな瞳だった。
海辺が見えた途端馬を下りて駆けて行ったファイに続いて黒鋼も馬を引き、けれどそのファイの様子に首をかしげる。
海を見たい、とそう言ったのはファイだ。

「海だろ、どう見ても」
「オレしってるうみ、ちがうの」
「あ?」
「ヴァレリアうみ、しらない。セレスうみ、くらい、つめたい。こおって、おと、ない」
「……そうか…」

ふるふると首を左右に振ってじっと興味深そうに海を見つめながら、まだ拙い日本語を使って呟いたファイの言葉に黒鋼は微かに顔を顰め、けれどただ静かに瞳を閉じた。
黒鋼自身、諏訪の地で暮らしていた頃は内陸の土地だったために目の前に広がる全てが水であるこの海を目にした時は驚いて目をむいたものだった。
数年の旅の中でもそう言えば湖や川はあったが海という場所に訪れることはなかった。
垣間見たファイの過去からセレスの土地は常に冬の土地だったのだ、海がそのように凍っていても不思議ではないのかもしれない。
けれど、とそっとファイの隣に並びその横顔を盗み見た黒鋼はファイの表情から陰りを探る。
蒼い瞳のこの男は、己の感情を、特に負の感情を押し殺すことに長けすぎていた。
旅を続けて数年、共に暮らすようになって3ヶ月
すでに深いところまで繋がりを持ったとは言え時折押し殺してしまうこの男の陰りを、黒鋼は見落とすわけにはいかない。
真夏の炎天下、ただ立っているだけで自然と汗が滲みつっと頬から首へと伝っていく。
自然と眉間に皺が寄り睨むようにファイに視線を向けていた黒鋼だったが、突然ファイがにぱっと、実に嬉しそうに破顔してビシッと海を指差したかと思うと大声を上げた。

「にほんこくうみ、あおっ!ざざー!!」
「おいっ!?」

わ〜い!と実に嬉しそうな声を上げてファイはパタパタと駆け出し砂浜へと降り立つと、何を思ったのか履いていた草履と足袋を脱いでそのまま一直線に海に向かおうとする。
だが、足袋を脱いで砂浜に足を着いた瞬間、ファイは思いきりひっくり返った。

「っ!?」
「アホ、素足で砂浜に降りるヤツがあるか」
「くろたん、あつぃ〜!!」
「当たり前だ、この炎天下の砂浜だぞ」
「ぅえ〜〜…」

砂浜に手をついた瞬間吃驚したように手をあげ、それから足がつきそうになって慌てて草履の上に足を置き、泣きそうな顔で背後を振り仰いだ。
ファイがひっくり返った原因に気付いて、黒鋼も呆れた様に側まで近付き軽く拳で頭を小突くと足袋を脱いだ状態でとにかく草履を履けと促す。
見事に砂浜に尻餅をついたファイに草履を履かせてから引っ張り上げて、ついた砂を払ってやればファイは転んだことが恥ずかしかったのかわずかに苦笑いを浮かべ、けれど黒鋼がそのまま足袋をはけと促してきたことに顔を顰めた。

「くろたん、うみ!」
「…入りてぇのか?」
「うみぃ〜!!」
「わかった、わかったから落ち着け、またひっくり返るぞ」

ファイとしては初めて見る海、青い海、凍っていない海、そこに足をつけたくて仕方がないのだ。
幼い頃、知世姫に初めて海に連れてこられた時、黒鋼も同様に思ったのだからその気持ちもわからなくはない。
小さくため息を零してとりあえず波打ち際までゆっくりと歩いて行く。
額に滲む汗を拭いながら黒鋼の背を追いかけるファイはこのまま入っていくのかと、きょとりとした後に首をかしげて黒鋼の袖を引いた。

「くろたんくろたん、くつ。ぬれる、よ?」
「靴じゃねぇ、草履だってんだろ。このままは入らねぇよ、波が寄せて引いてる場所なら素足でも問題ねぇだろ」
「なみ?よせ、?ひ、て?」
「ぁ〜…そこだ、色が、違う、だろ?」

波が寄せて、引く、等という言葉は通常の生活の中では殆ど使われない。
この3ヶ月あまりで私生活では問題ない程度に言葉を覚えたファイだったが、それ以外のことはまだ目下勉強中だ。
そのせいもあって今一言われている内容がわからなかったファイが顔を顰めて首を逆にかしげる様子に、黒鋼は頭の後ろをかいて小さく唸ると説明するより見ればわかるだろうと、波が寄せて、引いていった後の濡れた砂浜を指差す。
すると、途端にファイの表情がぱぁっと輝いた。

「すな、ぬれてる!つめたい!!」
「おい、こら!?」

途端に草履を脱いでその場所に足を降ろし、そのまま草履を手に海の中へと足をつける。
ひっくり返るなよ、と思わず顔を顰めた黒鋼だったが、何故かはしゃいで海へと足をつけたファイがぴたりと身体を固めて海に着けた足を見つめ、それからゆっくりと黒金を振り返った。

「…くろたん…うみ、ぬるい…」
「この炎天下だからな、仕方ねぇだろ」
「つめたくないぃ…」
「涼が取りたかったのか」

もっと冷たいと、山の中を流れる川のような冷たさを求めていたのかもしれないが、残念ながらここはそれほど川辺に近いわけでもなく、この時期は波も穏やかでそれでいてこの炎天下、いくら並々と水を湛えた海であってもさほど涼は取れない。
呆れる黒鋼にちぇ〜っと唇をとがらせて拗ねたような表情をしながらも、ファイはそれでも波が寄せては引いていく様子を見つめ、パシャパシャと興味深そうに海に足をつけて水を跳ねさせる。

しばらくその様子を見つめていた黒鋼だったが、流石に炎天下の砂浜でじっとしていては暑くて仕方がない。
それは足を海に着けているファイも同じなのかじわりと滲んでくる汗を拭っては手も海に着けて頬に当てて楽しそうに笑っていた。
多少涼を取っているようだが、頭上には真夏特有の強い日差しと雲1つない青い空が広がっており、このままでは熱中症になりかねない。

「おい、あまり長いこと炎天下の下にいると、またぶっ倒れるぞ」
「はぁ〜い!」

首筋を辿る汗を拭いながらファイに声をかければ、予想に反してファイは行儀の良い返事をして楽しそうに水を跳ねさせながら黒鋼の元へと戻ってきた。
濡れた足を手ぬぐいで拭いてから足袋ははかずにそのまま草履を履いたファイは今度は黒鋼の隣で海を眺める。

「うみ…あお、みどり?」
「あ〜…ここのは翡翠、だな」

ここの海は日本国にあって特に美しく、青と言うよりは淡い緑がかっていてファイには青なのか緑なのか表現がわからず首をかしげる。
黒鋼もあまり色の表現に詳しいわけではないがファイの疑問には理解できるのか小さく唸ってから思いついた色を口にする。
翡翠よりも白群に近いかも知れねぇな…
言ってから違うか、と思わず顔を顰めそうになった黒鋼の耳に嬉しそうな声が届いた。

「サクラちゃん!」
「あぁ?」
「サクラちゃん、ひとみいろ、ね?」
「…姫の目の色か…確かにな」

嬉しそうに笑って海を指差し首をかしげたファイの言葉に、黒鋼は一瞬何のことかわからなかったが、砂の国の姫の瞳を、水に愛された彼女を思い出して確かに、と小さく笑みを浮かべて頷く。
砂の国で生まれ育った彼女は海など見たことはないだろう。
けれどここに広がる海の色はその姫の瞳と同じように澄んだ色をしていた。

「にほんこくうみ、サクラちゃんいろ!!」
「いや、そりゃちょっと違うだろ」

黒鋼に同意して貰えたことが嬉しかったのか、ファイは嬉しそうににぃっと笑みを浮かべて両手を目一杯天に向けて楽しそうに、また新たに増えた新しいモノを大きな声で叫ぶ。
途端に黒鋼が顔を顰めて呆れる様子にもファイは至極嬉しそうに声を上げて笑った。



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